記録 自分用

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宇宙全般と我/「史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち(インド編)」

全体について

さてせっかく著者の西洋哲学編も読んだことだしという感じで東洋哲学編も読んでみた。はっきり言って西洋に比べてかなり理解が難しかった。特に第1章(インド哲学)がもっとも意味わからないのでとばしてもよいと言いたいところであるが、そこで触れた内容が本書全体で重要になってくるのまるまる飛ばのはおすすめしない(1敗)。逆にそこさえ読み切ってしまえばあとは割とすんなりいく内容であった。地理的に日本にどんどん近づいていくのもわかりやくすなる理由の一つだろう。

あと第1章はかなり哲学っぽいのに対し、後半はどちらかというと東洋風の考え方とかその人の経歴の紹介みたいになっている節がある。まぁ考え方そのものというより読み物としては面白かったので個人的には問題ない。

本書全体で一貫して語られているのが、東洋哲学が(西洋哲学とは違い)理解というものに重きを置いているという視点である。知ると識るの違いといえばいいのかな(個人的には識るの方が知識として覚えているというイメージがあるけどまあそこはどうでもよい)。東洋哲学における理解とは、ただ知識として何かを知るのではなく、具体的な経験を伴って体得することを指すようだ。本書では2合目あたりに書いてあった蛇とロープの例が多分一番わかりやすい。この話を最初に持ってきたほうがよかったんじゃないかなと思うぐらいに納得できた。

東洋の宗教にありがちな(いや意味不明な儀式はどの宗教にもあるのだろうけど)意味のわからない問答や儀式はこの理解に到達するためにあるという視点にはなるほどと思った。

 

インド哲学について

流れとしてはヤージュニャヴァルキヤ→釈迦→龍樹という3人。3人しかいない。3人しかいないのに難しいしかなり長い。まあ東洋哲学の発端だし納得できなくもない。

ヤージュニャヴァルキヤ

この人のテーマはやっぱり梵我一如だろう。宇宙の全て(梵、ブラフマン)と自分自身(我、アートマン)はそもそも同じものであるという考え方のことである。ブラフマンの方は理解しやすいが、アートマンの方は少しわかりにくかった。「我」の絶対条件とはなんですかと聞かれたときの返答が脳になりえないという否定の説明に筆者はかなりのページを費やしていたのが印象的で、多分筆者もいろいろ調べる過程で納得できないことが多かったんじゃないかなと思わせる。個人的に「我」がたかだか身体の1器官にすぎないものに宿るとは考えにくいので、そこはけっこうすんなり理解できた。

問題は「我」の絶対条件の解答が「痛みや色を認識するもの、またそれらを感じる意識の現象」というところだ。またお前か。自分はここらへんの概念をまだ理解できていなくて、似たようなことを言っていたのデカルトの「我思う〜」のところも筆者の思惑とはおそらく異なる論理展開で納得した経緯がある。自我とか「自分のことを自分だと認識できる能力(ただしこれは外部からは確認できない)」のことを指しているのだと思うけど、いまいち理解できない。特に「認識するもの(アートマン)」を認識するにはまた認識するものが必要になるという無限遡行の指摘はさらに意味不明で、そりゃ1人でやっているんだったらその通りだけど、2人組を作ってお互いがお互いのアートマンを認識し合えば丸く収まるじゃんと言いたい。一応これに対する反論として、アートマンは他者からは存在しているか判別できないとかなのかもしれない。哲学的ゾンビの話に近いかな。それでも他者が認識できない可能性がゼロにならない限りは2人組でアートマンをを認識し合う作戦の成功率はゼロにならないと思う。自分以外の他者が生きる意味を与える的なことを言っていたのはレヴィナスだっけか。

まあアートマンは認識できないというところさえ認めちゃえばヤージュニャヴァルキヤの説明には不満はない。映画と観客の例もよくできていると思う。『(人は本質的に自分でないものと同化してしまいがちで、さらにそれに気づかないから)今度は「容姿」「肩書き」「財産」「他人からの評判」「自己イメージ」、そういったものと再び同化してしまう』らしい。確かにね。アートマンを破壊しようがないものと捉えるなら、列挙されたものがどうなろうと本質的には関係ないわな。でも破壊はできなくても消滅はするんじゃないの。肉体の生命活動がなくなったら(つまりは死んだら)さすがにもういなくなるでしょ。いやいなくなってもらわないと逆に困るけどね、火の鳥じゃないんだから。

釈迦

ヤージュニャヴァルキヤの死後はさっきの蛇とロープの例のように、本当に理解していることの証明として苦行が流行ったらしい。本当に理解しているからどんな辛いことにも耐えられるという証明のための苦行なのか、こんだけ辛いことやって耐えられたら理解したってことだよねという確認のための苦行なのかは知らないけど(後者なら予定説に近いように思える)、なんというかそれだけの悟りへの憧れはすごい。ちなみにこの本では釈迦の苦諦とか集諦とかの説明をかなり省いていて面白かった。自分もセンター倫理を受けるために覚えたような気がするが、いまではほぼ記憶に残っていないからどうせ詳しく書いてあってもすぐ忘れたと思う。

釈迦の主張として最も大事だと触れられている無我(アートマンなんて存在しない)については、なんか本質的でないというか言葉の綾というかという感じだった。ヤージュニャヴァルキヤが間違ってたとかそういう意味ではなく、みんなが間違って理解するぐらいなら最初っから存在しないと考えたほうがマシだという考え方に基づいて先例を否定したということらしい。過激派だ。

ていうかこいつが変な例とかを使わず真髄みたいなものをなるたけわかりやすく(たとえ経験を伴う真の理解への道が遠くなろうとも)書き残したりしておけば後世の争いとかなくなったんじゃないのと思うと余計なことしやがってという考えにいたらなくもない。

なんとなく東洋哲学の祖で1番大事な人だと思っていたけど、割かれたページ数は思ったより少なかった。

龍樹

大乗仏教を救った人として登場。ていうか大乗仏教側が緩和を要求した事柄は、別に教義に直接関係していたわけじゃないところが人間らしくて好きだ。龍樹の般若経はめちゃめちゃ膨大な書物らしく(漢訳版で600巻)、師匠筋の釈迦がろくに書き遺さなかったこととは正反対である。極端なんだよね。で、そんな膨大な内容を凝縮したのが般若心経(これの読みはしんぎょうらしい)とのこと。思った以上に凝縮したうえに色即是空のとことか同じことを4回も言っているあたり、本当に600巻も必要だったんかねと思わざるをえない。

でも中身はかなり理解できる部分も多く、色(実体)と空(実体がないこと)が同じというのはよく説明を読むとそこまで変な内容でもなかった。たとえば因果関係とは人間の思い込みに過ぎない(どちらが因でどちらが果とかいう見分けは本質的には存在しない)と言われればなるほどねとなるし、この世界はそもそも区別なんか存在せず、人間が勝手に線を引いて名前をつけているだけと言われれば確かにねとなる(ここら辺は西洋編でソシュールを読んでいただけにわかりやすい)。

以上のような論理展開のうえに、「存在するもの」は人間が勝手にそう規定しているだけで、本質的にそのような「存在するもの」は実体がないという意味で色即是空、空即是色である。いやはや明快。ちなみにこの後の空(実体がない)→存在しないという展開は、あえて苛烈なことを言わないと弟子たちに間違って伝わってしまうからという理由で説明されていた。またかよ。

この存在しない節はどんどん範囲を広げていき、しまいには苦諦とか集諦とか認識するという行為まで含めて一切合切存在しないと言い切っている。これは分別智(「掛け算」と「逆の概念」から割り算ができたように、既存の知識を組み合わせて新たな知識を得る考え方)は「言葉」という区別の道具を使っている時点で好ましくないから、この呪縛から逃れるためにあらゆるものを否定したらしい。逆に望ましいのは赤ちゃんが世界を認識するときの無分別智であり、分別をやめることで到達するその境地へ導くことが全ての否定の動機とのことだ。そして最終的にどうしても分別せざるを得ない自己と他者の境すら乗り越えるために、般若心経のラストは呪文という「なんの意味もない言葉」が用意されていると説明していた。ははー。本当に龍樹がここまで考えていたかはともかく、こんな思考過程を後から理由づけした人はすごいなーというのが正直な感想である。

 

細かい苦言として、筆者はこの章のラストにインドで仏教が廃れていった理由をあげているが、これはその後に続く中国諸子百家編と明らかに時代的な整合性がない。多分(ていうか99%)「東へ!」って言いたいがためにインド発の考え方が難を逃れて東に波及していった展開にしたいんだろうけど、単に東に東にと波及していった後にインドでは勝手に潰れたというだけで、言うほど「東へ!」感はない。

なんならインド側が頑張って東へ届けたというより中国側ががんばって東に持ってきたというイメージである。まあこれは当事者がどっちであろうと思想の伝播という点では些細な問題か。