記録 自分用

感じたことや考えたことを書いていきたい。

探求の歴史に添いつつ/「史上最強の哲学入門(真理編)」

前書きと全体の感想

とにもかくにも自分は哲学に変な憧れを抱いており、なんとなく詳しくなるとかっこいいなと思っている。かといって哲学者の述べることを詳細に丹念に読み解くだけの労力もかけたくないので、哲学史とかに興味を持つことでバランスを保っている。

センター試験対策として何冊かの参考書を読んだときに意味わからんと思っていたものでも、純粋に興味としていろいろ調べてみると少しはわかることが増えていて面白かったりする。

作者曰くこの本はバキ+哲学というコンセプトがあるらしいのだけれど別にそんなことはないと思う。強いていえば前章の考え方を次の章で否定するという流れになっているが、まあそれはヘーゲル的にいえば歴史全体の流れなのではないかなとも思う。

まあある程度意図的な取捨選択をしているからこの流れが強調されている側面もあるのだろう。

 

ともかくこの本は大きく分けて4つの編から成っているから、順番に感想とか考えたことを書いていこうと思う。

 

真理編

流れとしては

プロタゴラス相対主義)→ソクラテスデカルト→ヒューム(経験主義)→カント(真理の定義を狭めた)→ヘーゲルキルケゴールサルトルレヴィ=ストロース→デューイ(プラグマティズム)→デリダ(話し手中心主義)→レヴィナス

という感じである。

このうちデューイとレヴィナスはなんというか流れにうまく合ってない感じがあるので、入れる場所に困った結果デューイは時代的に、レヴィナスもまとめとしてちょうどよいのでここに配置されたのかなとも思う。

以下各章について思ったことを述べていく

ソクラテス

プロタゴラス相対主義への反論として、相対主義に終始すると人間が全力で考えることを放棄してしまうという指摘は面白い。たしかに国家のようなみんなで共存するものであれば「見方はいろいろあっても一番最適な理想の程度」を見つけなければいけないといえる。まあこれをどうやって見つけるかは功利主義とかいろいろあるんだろうけどともかく納得できる話だ。

またソクラテスを「熱い信念の男」として描写するのは初めて見たが、実際どうなんだろう。悟り世代とか達観してるのように表現される若者としては興味ある話だ。『ソクラテスの弁明』あたりを読むといいのかな。

デカルト

「我思う、故に我あり」について。どういうこっちゃねんと思っていたが、なんとなく理解できた。すべてを疑ったのち疑えないものだけ認めていくというポジティブリスト方式をとるとき、少なくとも「疑っている私」は疑えないのである。なぜならもし「疑っている私」が偽物なんじゃないのと疑っても、ほらそこで疑っちゃってる時点で疑う私は存在してるじゃんという入れ子の構造になっているからである。「疑う私」は本当に存在するのかと考える姿勢そのものが「疑う私」なのだから、どうやっても「疑う私」は存在する、という理屈のようだ。なるほどね。たまに思うけど入れ子の構造は強い。反論するときに反論の対象にならざるをえないというのはかなり強いといえる。

自分はこの考え方でかなり納得できたので他の考え方には深くつっこまないようにしよう(まさしくデリダらしい考え方だ)。

本書に書いてあるこのあとのデカルトの論理展開はさすがに楽観的になりすぎなので、一度確認しておくとよいかもしれない。でもこの人唯一神という意味での神の存在証明がしたかったらしいからあながち間違いでもないのかも。

ていうかこの第一原理を否定した人がこの後の章では出てこなかったように思えるからこの人が最強でいいんじゃないの。

ヒューム

デカルトの第一原理に対して、「私」という統一された概念があるわけじゃなくて不連続な感覚が切れ目なくおこるのを私と錯覚してるだけじゃないのと突っ込んだ人。自我に対して懐疑的という解釈でいいのかな?

人間の想像は自らが経験したものの組み合わせ以上にならないという「複合概念」を提唱していた。

あと柳の下の土壌じゃないけど、あらゆる因果関係は人間の錯覚の可能性を捨てきれないという視点は忘れないようにしていきたい。手を離すと物が下に落ちる経験が100回あったとしても重力の証明にはならない。101回目で違うことになる可能性も捨てきれないからだ。ここら辺は反証可能性は、科学とはなにかを考えるときに必須になる部分だと思う。

あと唯一神というかたちの神に対しても疑いの目を向けたところは個人的に評価したい。

カント

倫理では大陸合理論とイギリス経験論を統合した人として習った記憶があるが、今回は真理の定義を狭めた人として登場。

経験そのものは人によって様々だが、その受け取り方には人類に生まれついての一定の様式があるのではないかと主張。人間は何かをみるとき「空間的」「時間的」にみることしかできないというのは確かにその通りだ。確かにダークマターとかダークエネルギーみたいにどのような手段を用いても知覚できないものはみることができない(まあこいつらは計算で状況証拠的に認知することができるわけなんだけど)。

だから人間と世界の捉え方が違う異星人で真理に差があってもよい、もっといえば真理というものはこの二つの種族の間で普遍的に通用する必要はないのだ。人間には人間特有の捉え方があり、その捉え方に即した真理を追求すればよいという主張なんだろう。

ただしこれも西洋中心主義というかなんというか、世界のどこかにはなにか違う見方で世界を感じている人たちがいても別に不思議ではない。その人たちはここでいう人間じゃないということなんだろうか。

また異星人の真理を教えてもらっても人類には理解できないから聞いてもしょうがないし探すのも無駄だという考え方は、世界の区切り方を実用性に即して捉えたソシュール言語学に通じるところがあると思う。

ヘーゲル

真理の定義ができたところで、じゃあ一体どうやって見つけるのかという方法を考えた人。まあ弁証法という考え方それ自体に異論はない。それを国家という枠組みにあてはめた歴史観はよくわからない。

そういえば昔見た倫理の参考書では、王様だけじゃなくて国民みんなが幸せなゲルマン国家(国民国家)を到達点としたところを批判されていたけど、実際はどうなんだろう。

サルトル

キルケゴールヘーゲルの対抗馬として紹介されたところで、その2人をいかにして合一するか考えた人。

いつかは真理に到達するとしたヘーゲルと、いつか到達する真理よりもいまここに存在する私を幸せにしてほしいと考えたキルケゴールの合一として、じゃあ今の世代の私たちで弁証法やりまくって幸せになればいいじゃんと主張した。